雑記帳 2023年1月

1月31日(火)

昨日は素晴らしい原稿をいくつもいただいて感激してしまった。吉報も。その返事をし、また別の初校を関係各位の協力で出せた。よく働いた。源泉徴収の合計額表を作って提出したり、出荷もした。会社員時代なんてこの5%くらい働いたら働いたなあとビールがうまかったものだ。いやしかし、それくらいでちゃんと回っていくのが本来はいいのだと思います。そこで本を読んだり、映画や演劇や展覧会を観たり、人とご飯を食べたり、そこからいろいろ生まれていくのだと。

今日はお休みで急ぎでメール返した後は外に出て散歩、それから『パリ闊3』の続きを考える。お昼を食べてから急に胃なのか腸なのか痛くなり、2時間ほどソファで仮眠。初校を出して気が緩んだのか、疲れが出てるのか。

お金の心配は絶えないが、とにかく本を読む時間、いろいろを観る時間を作る。いいものを取り込んで面白がっていれば、ちゃんと面白いものは書ける。

1月29日(日)

SNSに上げられた感想や本の紹介などは一つ一つありがたい気持ちで読んでいるが、それらを逐一リツイートするようなことはやめてしまいました。それよりも、読んだり、観たりしたものを、自分で書き綴っていきたい。おそらくTwitterであまり今つぶやく気にならないのもそういうことだろうと思う。人にもよると思うけれど、近くにいるから、仲がいいとか、互いに評価しているということでもないし、離れているから興味がないとか無視しているということではまったくない。むしろ敬意を持って接しているからこそ、安易には関わらないということだってあるが、SNSという仕組みがそういうことを許さない。本を知ってもらうためにはある程度必要なことだとは理解しながらも。作品に対していただいた感想や意見は、やはり次の作品で応答していくほかにない。

人生に無限の時間があると信じられた時期をとっくに過ぎ、しかもこれは絶対にやりとげたいというものが明確になった今(幸いなことに!)、やらないことは放り出していかないと、本当に何もできなくなってしまう。

昨晩、家に帰ったらフリーペーパー『dee’s magazine Volume 7』特集「失敗」がポストに届いていた。ホッチキスで表紙がボコボコしているところからして、とても気持ちよく、中を開いたら楽しくてしばらく読み耽ってしまった。立花隆との話がよかったなあ。雑誌全体が嫉妬してしまうような面白さ。

そう言えば、立花隆と言えば僕も『宇宙からの帰還』。あれは本当に素晴らしい。立花隆自身が月まで行ったのかな!というくらい真に迫る。あとは立花隆で印象的だったのは『青春漂流』。「青春が終わったと感じたのはつい数年前のことだ」と40代半ばで書いていたこと。

1月28日(土)

やることはあるのだけれど、前夜の残りのユッケジャンスープとご飯、ビール、日本酒を昼から飲んだりして、やるべきことを手放し、本を読む。今日は休み。読まねばと思いながら何度も立ち読みしていた柄谷行人『力と交換様式』を買って読みはじめた。どれくらい読めるだろうか。しかしこの、今読むべきだと感じて、パラパラと読んでみたり、目次を眺めるだけにとどめながら、どんなことが書かれているんだろうかと想像を膨らませる時間、他の本を読んみながら、関連しそうなキーワードをきっかけにひょっとしたらこういうことが書かれているのではないかと思索する時間にはすでに読書は始まっているものだと思う。

夕方、六本木のSCAI PIRAMIDEに『赤瀬川原平 写真展』を観にいく。残された4万枚から、6人のアーティストが20枚ずつ選んだ写真を展示しているものだが、赤瀬川原平の写真展でありながら、それぞれの選者の傾向があり、選者の目を通して浮かび上がってきたもの、つまり選者の作品でもあると強く感じた。毛利悠子さんの選んだ写真は、まさに毛利さんだった。展示の傍に掲げられる赤瀬川原平との出会いなどを綴った各人の文章もよかった。

1月24日(火)

『ドン・キホーテ』で思い出したことを一つ。京都に「サラダの店 サンチョ」という店がある。ランチタイムなどは、サラダの店にこんなに人が並ぶのかというくらい並んでいる。サラダの店だが、ランチにはなぜかミックスジュースが付いてくる。四半世紀以上前の話だが、家族が出掛けて一人で食事となると、祖父はきまってサンチョに行っていた。また、サンチョに行ったの?と家族から揶揄われていた。こないだ京都に出張した日にランチに私も並んだ。ステーキやフライなどの洋食がうまい。そんなにサラダが好きなのかなあと思っていたが、要するに肉を食べに行っていたわけだ。

1月23日(月)

あった出来事ではなく、出来事をきっかけにした思考の展開を書き残しておきたい。このところ岩波新書の『民俗学入門』がものすごく面白いし、毎ページ目から鱗が落ちる。これは、しかし単なる出来事だ。

1月21日(土)

午前中に予習して、午後は双子のライオン堂で『ドン・キホーテ』の読書会。本編に入る前の参加者が近況や最近読んだ本などを紹介しあう時間が、知らないものに触れられて、非常に楽しい。今回は、前篇2巻の24ー25章を読んで感想を話す。狂った青年(襤褸の騎士)の失恋話を聞いていたが、相手が騎士道物語のことを持ち出したために、ドン・キホーテが口を挟み、それで相手が話をやめてしまう24章と、それでふたりきりになったドン・キホーテとサンチョ・パンサが会話を繰り広げる25章はさながら反省会だった。

夕方、かもめブックスに十七時退勤社、笠井瑠美子さんの『製本と編集者』のポップアップを見に行く。将来、君の作った手製本の本が神楽坂の本屋さんに展示されることになるよと、高校生であった私に教えてあげたいと思いました。本のイラストとインタビューの抜書きを印刷したブックカバーでそれぞれの編集者が手がけた本を包んであり、あれがまたとてもいい。帰りに、赤染晶子『じゃむパンの日』を買い、それから神保町に寄って東京堂書店で週刊読書人を手にいれる。

週刊読書人1月20日号では、太田靖久さんとの共著『ふたりのアフタースクール』を紹介いただいていた。「縦横無尽に出版界を暗躍」というユーモアに満ちた紹介がとてもうれしい。そして、誌面のすぐ右下「赤瀬川原平」の文字に目が留まり、柳本尚規「中平卓馬をめぐる50年目の日記」を読む。赤瀬川原平がさまざまな雑誌から切り抜いて制作したコラージュ作品を預かった著者が、雑誌を片っ端から調べて出典を明らかにし、許諾をとった話が載っていた。これは興味深い。

このペースでは到底書けないが、気が向いたら、ぼそぼそと書く。

1月20日(金)

先週末は文学フリマ京都に出店するために京都に行き、そしてその前後で京都と大阪の本屋さんにご挨拶・新刊のご案内をして回った。もっと回る予定で、実際回れるはずだったが、途中でへばってしまい、というよりも体調に異変を感じ、月曜日は会社で言うところの定時前の新幹線で帰京する。月曜日はもう何をしていても息が上がったし、背中が痛い。どうしてこんなに息が上がるのかと訝りながら、新大阪で買った肉まんを食べようとマスクをはずしたら、マスクを2枚着けていた時には驚かされた。しかし、不調にはちがいなく、無視はできない。かかりつけの医者に行き、検査をしてもらう。幸にして異常はないということだった。それほど過密に働いているわけではないのだが、心身が休めてないのだろう。仕事の仕方を日々工夫していく。

あまり動き回れなかったわけだが、それでも関西訪問ではいくつも発見があった。昨年の夏にトークイベントを開いてもらったふたば書房 ゼスト御池店に行ったら、店頭で木村松本建築設計事務所著『住宅設計原寸図集』(オーム社)のフェアがあり、近くのショーケースの中で住宅模型の展示がしてあった。まずフェアの選書が建築と関わりそうでしかしバラエティ豊かでこんなところからこんなところまでという視界の広さにすごいと声が漏れた。見ると、建築事務所の世代の異なるメンバーの選書である。チームで選書することのよさを感じたりもした。それよりも何より、やはりこのフェアの本『住宅設計原寸図集』だ。ふつう設計図面は1:100とかの縮尺で実物よりも小さく描かれるものだが、実寸で図面を引いてこそ、はじめて実感を持ってわかる、これから建築するものが想像できるようになるのだと著者は言う。本屋さんに足を運ぶと、本当に発見がある。

あとは、人に随分と話を聞いてもらった。文学フリマには、twitterで繋がっていた方も来てくださっていたみたいだ。こうして京都まで来ると訪ねてくださる方がいる。本当にありがたいことです。

帰京翌日はとにかく休んだ。そこから、また夏に出す雑誌『代わりに読む人1 創刊号』の編集、単著のゲラのやりとり、新しいプロジェクトのことなどなど。

やることが山積しているが、ほどよく休みつつ、今年は外にも出て行きたい。人にも会いたいが、展覧会や演劇を見たり、街を歩きたいと思う。1月1日(!)から1ヶ月間、埼玉・北本の小声書房さんが本の種出版との共同フェア「他者にふれる ーー世界を広げる、もう一つの見方」を開催くださっており、会期も2/3を過ぎたところで、ようやくお店を訪ねることができた。行ったことのない本屋さんに行くと、見たこともないような本が目に飛び込んでくる。アンソロジーやマンガで気になるものがいくつもあった。

1月14日(土)

朝、新幹線で京都に向かう。明日の文学フリマ京都出店と合わせて、日頃からお世話になっている本屋さんを訪ねて、2月にH.A.Bから満を持して出る単著『ナンセンスな問い』のご案内をする。

雑誌制作が本格的に始まっている。原稿が次々と届き、どの作品も大変面白く、唸る。いくつもの作品を独り占めできるのが編者の役得だ。

年末から次の大きな仕事の構想を練っている。とにかく風呂敷を広げる。広げれば広げるほど、日頃読むあらゆるもの、街で目にするもの、思いついたことがことごとく関係してくるような気がするから不思議だ。そして、広げた風呂敷はやはりそのごく一部しか形にはならないだろう。それでも、風呂敷を広げなければ、その「ごく一部」も達成することができない。どこかへ到達するための糧のような気がする。何かを目指しながら決してそこには到達できない、だがそこになんとかして迫ろうとする意志。病理医ヤンデル先生が昨年、Twitterのスペースで私の本について語ってくださった時にいただいた言葉を思い出す。あれはこの10年、無意識にやってきたことを言い当てられた気がして、とてもうれしかった。